国語力=生活の『知的努力』。

『ああ、もったいない…。国語力さえあればもっと解けるのに…。』生徒達を指導していて、いつもすごくすごく残念に思うこと。

「じゃあ、国語の勉強の仕方を教えてもらおう」と誰もがきっと考える。それは国語を「科目」としてだけとらえているから。

確かに国語の解き方のコツ、要点のとらえ方、そういったものは科目としての勉強。でも、そのコツを手に入れるのも、要点のとらえ方を理解するのも『国語力』であることに気付いている人は決して多いとは言えない。

つまり、手段ではなく、今自分の持っている語彙力、言語能力、咀嚼能力、そういった言葉の根っこに栄養をあげて太くしないと、せっかくの手段がうまく活用できない。根本=言葉の根っこ、さえ太く育てば話は早い。

では、国語力の根っこを太くする栄養はどこで与えられるのか?
それは日々の生活。今までずっと生きてきた中で家族や友達と交わしていた会話。聞いてきた言葉。挨拶。返事。追ってきた文字。書いた文字の回数。相手に気持ちを伝える言葉。本読み。そういったことが出来る集中力。
全ての栄養分が一瞬一瞬の生活の中にある。
だって、私たちは言葉(国語)を使って365日を生活しているのだから。

『継続は力なり』、しかし、栄養バランスが良くない日々では『継続は力不足にもなる』

生徒を指導していて、日々感じる言葉を少しずつ失っていく怖さ。
生身の人間と目の前でスタンプ会話は出来ない。自分の気持ちを伝える時、本当に言わなければならないことがある時、きっと言葉にならない。言葉にならなかったら、伝えられなかったら、モヤモヤとした思いが心に充満。そのはけ口は?

それを「ま、いいか」とさっさと流すことも、はけ口がなくて心が重たくなっていくことも、どちらも良いとは言えない。

国語力というのは勉強だけでなく私たち自身の基本になっていることを改めて思う。つまり、私たちが存在するこの時、この場、いつでもどこでも国語力は良くも悪くも鍛え続けられていると感じる。

『国語という科目』を勉強しながらも、生活の中の会話を家族で気をつけてみる。て・に・を・は、を省かずにきちんと話してみる。子供が何か伝えようとしているときに、時間がかかっても待つ、助け舟を出して先に言ってしまわない。言葉が足りなければ明るく正してやる。お母さんが黙って本を読む時間を持つ。お父さんは子供の前でゲームをしない。そんな空気感をつくる。

国語とはそうした「知的作業」の中で育つ。それは日々の暮らしの中で根を下ろしてしっかり存在し、今日も一人一人のちょっとした「知的努力」を待っている。知的作業には「努力」がつきものなのだ。